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[16]彼と彼女の主義と主張

「善悪の区別ができる人間って、この世界にいるんですかね?」
 夜空に煌く月を見ながら、ぼそりと呟く。暑苦しい夏も終わりらしく、秋らしい涼しげな風が心地よい。
「いないだろうね。そもそも、物事に明確な境界をつける行為そのものが不可能なのだから」
 月に向けて、優雅にティーカップを掲げる孤乃木(このぎ)先輩。中身は当然のようにミルクティー。西洋文化に月見ティーというのがあるかは知らないけれど、日本人の僕の視点で見れば随分と、風流でない行為だ。かく言う僕もマグカップで緑茶をすすっている身分なので、批判はできないところなのだけれど。
 僕と先輩は、こんな感じに夜な夜な学校の屋上で過ごしている。どうでもいい話をしながら、のんびりと時を過ごしている。全くもって、非生産的な時間だ。今日の話題はちょっと哲学的でいいかもしれないが、先週の『携帯ストラップは必要か?』という話は本当にどうでも良かった。そもそも、僕も先輩もストラップをつけない派だったので、ただの空想論議に終わった。
「よくニュースで『善悪の判断がつけられる年頃だ』とかなんとかあいつらは言っているが、そんなのは全くの嘘だよ。善悪なんて立場が違えば変わってくる。大阪のおばちゃん達が良い例だ。彼女たちは友人のためにバスや電車に乗るとき、荷物を投げ置いたり強引な場所取りをする。彼女たちの行為は、その友人を思っての行為だ。その立場に立てばその行為は確かに『善』となる。しかし、一般常識――あくまで大阪を除く一般常識、加えてその場に居合わせた乗客にしてみれば、完全なる『悪』だ。けれど、行為の主体者であるおばちゃんは何も思わない。なぜなら、彼女たちはその行為を当たり前のものとして行ってきたからだ。反復して行ってきたからだ。故に、私が彼女たちの行為を咎めたとしよう。するとどうだろう、間違いなく彼女たちは私を批判するだろう。『私の地域じゃ当たり前やねん』とね」
 先輩は途中、拳を握りながら熱く語った。どうやら、大阪のおばちゃんに深い憎しみがあるらしい。僕の親戚にも大阪在住の人がいるけど、そんなことはしてないと思うけれど。きっと、あたりが悪かったのだろう。人類六十八億もいれば、贔屓目に見ても三十億は悪人だから。……あくまで僕基準で、だけど。
「おっと、これはちょっと分かりにくい例だったな。すまない、一昨日電車に乗っていたらその手の一団と出会ってしまってな。つい、悪例として出してしまった」
 一昨日だった。温厚そうな顔つきの癖に、孤乃木先輩は恨み憎しみ哀しみを深く引きずるタイプだからな。この事についてもきっと、再来年くらいまで覚えていることだろう。
「まぁ、その憎しみについてもあくまで私基準だ。私が借りた『世間一般』の人の中には、この程度は気にしないという器の大きい者もいることだろう」
「でしょうね。僕は公共交通機関ではずっと立っている男ですから、全然気にしなですね」
「私は根っからのモヤシっ子だから、それは不可能だな」
「じゃあ体力つけましょうよ。筋トレとかは夜の方が効果が高いらしいですから、今から走りますか?」
「ムーリ」
 かたことな感じで首を左右に振った。そしてそのまま、先輩は寝転がった。この人は、いつもこうしてダラダラしているのに、何故無駄な肉がつかないのだろうと時々疑問に思う。あれか、食べても太らないという魔法の体の持ち主か。あるいは、どこぞの星で機械の体にでもしたのだろうか。
「ところで、先の話――『善悪の区別』について、君の意見はどうだ?」
「そうですね……」
 口元に指を当て、考える素振りをする。適当に哲学的な話題を提供しただけで、自分の考えとか欠片も持っていなかった。基本、僕は自分の主義主張を持たないつまらない人間なのだ。だから、孤乃木先輩のような面白人間と一緒にいることで誤魔化して日々を生きている。先輩の隣では、だいたいの人がつまらなく見える。無個性な人間に見える。だから、先輩の隣に座れば、僕が本来所有するつまらさは先輩のせいになり、掻き消える。
「おーい、なんか他事考えていないか?」
「はい、エロい事考えてました」
「言い訳するならもっと上手にしなさい。君の脳内にエロの『エ』の字もない事は分かってる」
「名前にはついてますけどね。衿島(えりしま)裕人(ひろと)、ちゃんと一文字はあります」
「確かに頭文字……脳内にはなくとも頭にはあると」
 夜風が身に染みる。先輩のせいなのか、季節のせいなのか。
「……先輩、寒いです」
「夏も終わりだからな。だが、この程度の寒さで弱音を吐くとは情けない」
「モヤシっ子には言われたくないですよ」
「知らないのかい、モヤシは寒さに強いのだよ」
「本当ですか?」
「嘘だよ。本当は知らない」
「……そうですか」
 いい加減な人だ。一応この人、学年で十指に入る学力の持ち主のはずなんだけど――テストの点数が博識と関係しているとは言い難い。学校のテストなんて、努力でどうにでもなる問題だ。……僕はどうにもできていないけれど、そして、博識でもないけれど。
「さて、今日もそろそろ帰るとしよう。冗談抜きで、寒くなってきたし」
「そうですね」
 先輩はティーカップ片手に、僕はマグカップ片手に立ち上がった。屋上の出入り口付近へと数歩歩いたところで、先輩は立ち止まった。
「さきの問いに対する答え、君は話題を逸らし乗り切ってしまったな」
「えぇ、まぁ。考えもなしに適当に出した話題なので。テーマ的にくだらないとは言いませんけど、生産性の無さでは先輩のストラップ空想話と大して代わりませんよ」
「そうか……だが、このまま逃げられっぱなしというのも癪だな。君の逃げ癖、今のうちに直しておかないと厄介そうだ」
 先輩は溜め息と共に言うと、にんまりと笑った。悪戯を思いついた少女のように、無邪気な表情だった。
「え?」
 無邪気顔のまま、先輩は僕に抱きついた。ぎゅっと、きつく、かつ優しく――僕を抱きしめた。確かに月夜が照らす屋上に男女が二人。世間一般から見れば、僕ら二人がそういう関係と誤解しても無理はなさそうだ。だが、誤解は誤解。ここが六階であったところで誤解なのだ。……くっついているせいで、先輩のセンスが移ってしまったか。
とにかく、僕と孤乃木先輩はただの後輩先輩関係。こうして抱きしめられたこともなければ、手を握ったことすらない。異性として意識したことすらも、僕はないのだ。
先輩はにへらと笑ったまま、僕を解放した。何故か口元を拭っている。
「さて、私のこの行為は善と悪、どっちだろうか? 次会うまでの宿題だ」
 そう言うと、いつもとは違う俊敏な動きで出入り口へと駆け出した。モヤシっ子の先輩の体力はたかが知れている。すぐに追えば、大した苦労もせず追いつけるだろう。けれど、僕はできなかった。阿呆面下げて、その場に立ち尽くしていた。
「宿題、ねぇ」
 答えはすぐに出た。けれど、伝えるには勇気が要りそうだ。
 だってそれは――先輩に自分への思いを聞くのと同義だから。


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