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[17]月夜の幻

 僕は美しいものが好きだ。だから、生命も人々の歴史も数式も大好きだ。
 例えば、虫の羽化。
 例えば、カルタゴの名将ハンニバルの山越え。
 例えば、シュレイティンガーの波動方程式。
 どれもこれも、美しい。
 この世界は幸運なことに、美しいモノで満ちている。良い世界に生まれたものだ。
 無論、それと同様に醜いモノも多数存在している。しかし、それらに対しては目をそむければ、あるいは目を瞑ってしまえば事足りる。
 好きなものは好きなままに、嫌いなものは嫌いなままに。僕はこの四半世紀、それを信条に生きてきた。周囲の連中は、そんな僕を指して『自由な奴』だとか『身勝手な男』だとか言っていた。――否定はしない。なぜなら、まさしくその通りだからだ。
 これは僕の人生だ。僕の意思は、誰にも縛れない。たとえ、五体を鎖で封じられようとも、僕の精神までは縛れない。限りなく自由なままだ。そうなれば、僕は自身の世界に閉じこもり、幻想の中で美しいモノに囲まれて、自由に生きていく事だろう。……まぁ、そんな人生は考えたくはないけれど。だって、幻想よりも現実のほうが僕は好みだから。

 空を見上げると、見事な三日月が出ていた。薄雲がかかっていて、風情のある美しさだった。
 僕は月の形の中で、一番三日月が好きだ。あのフォルムがたまらなくいい。三日月だけで定食が食える。ちなみに、嫌いなのは半月。あの中途半端な形が気に食わない。
 にしても、やはり平地で見るよりも美しい。苦労して登った甲斐があったというものだ。飛び交う蚊も気にならないほど、僕は満足していた。
 しかし、体は正直なようで休息を求めていた。適当な木を見繕い、その根元にハンカチを敷く。そして、そこに腰を下ろす。幹のでこぼこ感がどこか不快だったが、それには目を瞑ろう。あの三日月の美しさと加減すれば、正に傾くだろうから。
 風で葉が揺れる。揺れるだけでは止まらず、舞い散る。視界に不意に乱入した木の葉たちは、月明かりに照らされ幻想的な景色を演出していた。
「綺麗だねぇ」
 思わず気持ちが漏れたかとも思ったが、僕の声ではなかった。声の主は、僕のすぐ隣にいた。そいつはどっしりと幹にもたれかかり、僕が来る前から月見を楽しんでいたように思えた。
 しかし、そいつの風貌は少しばかり変わっていた。口裂け女をイメージさせるような、大きな白マスク。夜の闇に溶け込むような黒髪。それとは対照的な闇を焼くような真紅なコート。
長めの前髪とマスク、加えることの闇夜で、それ以外の身体的特徴は分からない。月光と星明りだけでは、やはり不十分だ。美しいものは実用性に欠けることが多々ある。だが、許そう。美は正義だ。美の前では、全てが許される。
「乙女の顔を断りもなく凝視とは、君は失礼な奴だな」
「初対面の相手にそんな台詞を吐ける君の方が失礼だと思うけれど」
「すまないね、私は失礼な女だから」
「自分にできないことを他人に求めるなよ」
 僕の言葉に、彼女は笑ったように揺れた。
「自分にできないことだから、他人に求めるのさ」
 シニカル言うと、彼女は続ける。
「君の理論を社会に適用したら、ほとんど機能しなくなると思うが。適材適所、補い合い、助け合い。この世界の醜くも美しい戯言だ。……まぁ、礼儀という一点に絞れば、君の理論は正しいと言えなくもないけどな」
 ……何なのだろう、この女。明らかに怪しい。まさか、『本物』なのかもしれない。『本物』が、今のような議論を好むという話は聞いたことはないが、時代の流れと共に変わったのかもしれない。それに、丁度ここはかの都市伝説の発祥の地、大きなマスクと赤い服という外見的特徴から考えると、その可能性は低くは無い。だが、「私、綺麗?」とか聞いてこないから、はずれなのかもしれない。
「私、綺麗?」
 ――聞いてきた、聞いてきたっ!
 やばい、不味い、逃げなくては。しかし、どうする? 確か『ポマード』と唱えるのは効果がまるでないらしいし、千歳飴は持っていない。話によれば、奴は相当足が速い。この遮蔽物の多い山の中、その速力が完全に生かせるとは思えないが、僕にそれほどの地の利があるわけでもない。単純な追いかけっこならは敗北は必死――
「……なんてね。びびった?」
「へ?」
 おちゃらけた様子で言う彼女。間抜けな声が漏れてしまった。
「モノマネだよ、モ・ノ・マ・ネ。ちなみにこのマスクはただの花粉対策。山は好きだけど、花粉は好きになれなくてね……いや、花粉には嫌われてる、か。まぁ、とにかく、このマスクに深い意味はない」
「ま、紛らわしい真似すんな!」
「だって、君、私の顔をじっと見てたからな。モノマネの一つや二つかましてやらないと失礼かと思ってな」
「あ、あのねぇ……」
 面倒な人だった。だが、ただの奇人で良かった。僕の身の安全は保証されたのだから……たぶん。
「――それにしても、君、こんな夜中にこんな山中、一体全体何しに来たんだい?」
「ただの月見さ。僕は自由人だからね。時間や場所に縛られないのさ」
「ふーん、つまりただのホームレス兼ニートか」
「………………」
 返す言葉がなかった。その通りなのだ。何にも縛られない自由人――その実体はホームレスでありニートである。社会的な地位を捨てなければ、そんな人生はこの日本ではできない。
 けれど、美を求道者として最低限の身だしなみは整えているつもりだし、風呂にはちゃんと入っている。自身の見た目に手が行き届かないのは、単に資金不足だからだ。自由人はお金の面では限りなく不自由なのだ。まぁ、自分の姿なんて鏡をみなければ気にならない。僕はこの二つの眼に見える世界が美しければそれでいいのだから。
「そういう君は? 年頃の女性が、こんな夜中にこんな山中、一体全体何しに来たんだい?」
 僕は彼女の言葉を盗んだ。どうしてか、得意げな気分になった。
「何も」
 しかし、そんな僕を嘲笑うかのように、彼女は素っ気無く答えた。
「しいて言えば、歩いていた」
「どこへ向って?」
「どこかへ。私も君と似たようなものさ。自由人。目的もなく、ふらふらと」
 僕は再び、彼女を見つめた。さっきよりもずっと、見つめた。
「何? まさか私を口説くつもり?」
 見下したように彼女は言う。まだ、そんなつもりはない。あくまで『まだ』だけど。
 彼女の予測はフライングだ。陸上でやったら二回で失格の行為だ。
 まだ僕は、彼女についての評価を決定しきれていない。あくまで、外見の。夜目のせいもあるだろうが、長い前髪と……それ以上にあの大きなマスクが厄介だ。あれにより、顔のほとんどのパーツが隠れてしまっている。
 だが、それが逆にいいとも言える。ミロのヴィーナスの如く不思議な魅力をあのマスクの下から感じないこともない。彼女が一生、そのマスクを外さないと誓うならば、冗談抜きで口説いてしまうのもありだろう。
「では、これならどうだ?」
 唐突に、彼女はマスクを自らの手で外した。口裂け女――どころではなかった。美しさが崩れる――どころではなかった。僕の目の前にいるのは、人間でも妖怪でもなく――化け物だった。
 マスクの下には、地獄があった。
「あ、あああ、ああ」
 恐怖に支配された僕の口から、ただ音が漏れた。
「世の中そんなに甘くないってね。こんな夜中にこんな山中、ただの美人が一人で歩いているわけないだろう? 漫画やドラマの見すぎだ。そうそういないから、その手の話は面白いのだよ」
 マスクを戻し、笑ったように揺れる。僕は情けないことに、未だに恐怖で身がすくんでいる。
「じゃあな、ホームレス兼ニートさん。縁が合ったら……って、会いたくないよな」
 後ろ手を振りかけて、ゆっくりと降ろした。去り行く紅い背中は、どこか寂しげだった。

 それからいくらかして、紅が夜の闇に溶けきった。
 僕の隣は、まるで元々誰もいなかったように空いていた。
 僕は自分の頭をこつんと殴った。
 そうだ、さっきの出来事は月夜が見せた幻だ。そういうことにしておこう。
 未だ止まらない震えを押さえつつ、僕は山を降りた。下だけを見て、月を見上げることはなかった。


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