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[19]天国への行き方

 生きていてもつらいから、死んでしまおうと思った。
 死ねば、楽になれる。
 痛みや苦しみ、不安や心配から解放される。同時に、『無』を得る事ができる。
 ……けれどもし、民間信仰のように、『天国』や『地獄』があったとしたらどうしよう。それらの存在の有無は一度死んでみないと分からない。つらい生から逃げるというのに、逃げた先がつらい地獄だったとしたら、意味がない。まるで意味がない。
 という訳で、僕は天国へ行けるように、毎日を過ごしている。
 一般的には、善行を積むことにより、天国への入国が許可されるらしい。なので僕もそれに則り、善行を重ねている。ゴミを拾ったり、募金をしたりと、小さな善行をコツコツと積み重ねている。
 今日はどんな善行をしてやろうかと歩いていると、道路の真ん中で倒れている子猫を発見した。白くて小さな猫である。ここは車通りの多い道ではないが、全く通らない道でもない。命を助けることは、明らかな善行である。ゴミ拾いや募金とは、数ステージ上の善行である。僕は今日は良い日だと、神様に感謝しつつ子猫に駆け寄った……が、それは軽率な判断だった。そのまま、見なかったことにするべきだった。
 子猫は、両足を怪我していたのだ。赤黒い血が染み出している。怪我をして間もないのか、血はどんどん子猫の白を染めていった。
 苦しそうに呻く子猫。だが、僕にはどうすることもできない。獣医学の知識はないし、応急処置をするための道具もない。見ていることしかできない。
「どうしたのかな、少年」
 途方にくれていると、快活な透った声が鼓膜を揺らした。
「おっと、これは可哀そうに。この猫ちゃん、運がなかったようだね」
 どこからともなく現れた女性は、艶やかな長髪を揺らしながら言った。しかし、その口調からは、子猫に対する憐憫の情は小指の甘皮ほども読み取れなかった。この人はきっと、天国に行けない人だと思った。
「察するに、この子猫をどうすればいいか悩んでいるようだね。助けたいけど、少年にはそのスキルがない。見捨てるのは、心苦しい。少年はそのジレンマに苦しんでいるところのようだな」
「………」
 したり顔で女性は言った。当たっていたが、僕は何も言わなかった。言ったところで、この人に僕の言葉は届かないだろうと思ったからだ。
「安心していいよ。お姉さんが君の事を助けてあげるから」
 女性は満面の笑みを浮べて言った。青色の瞳が、妖しく輝いた。恐ろしいほどの笑顔だった。笑顔一つで、相手に恐怖を与える人を、僕は初めて見た。
「――えいっ」
 だけど、恐怖はそこでは終わらなかった。本当に恐ろしいのは、女性の次の行動だった。
 何の躊躇いもなく、子猫を蹴り飛ばしたのだ。小さな呻き声と共に、子猫は空の彼方へと飛んでいってしまった。僕はただ、子猫が飛ばされた空を眺めることしかできなかった。馬鹿みたいに口を開けて――
「よしっ、これで少年の悩みは解決されたね。子猫が助けれなくて悩む――なら答えは簡単だ、悩みの元を消してやればいい、文字通りね。やれやれ、畜生の分際で人間様を悩ますなんて、何様なんだろうね」
 悪びれる様子もなく、女性は言う。言葉からも態度からも、一片の後悔も反省も感じ取れない。どころか、『正しい事をした』という満足感で一杯だぜ、という印象さえ覚える。
 ……何なんだ、この人。どうして、あんな酷いことができる?
「おや、おやおやおや? 解せない、と言いたげな顔つきだねぇ。お姉さんがせっかく君の悩みを解決してあげたというのに……最近の少年は欲求不満なのかい? それとも、ゆとりが足りていないのかな?」
「……どうして、あんなことを」
 僕は尋ねた。意味のない問いだろうとは思ったけれど、尋ねずにはいられなかった。
「少年を助けるためだよ。私は善人だからね」
 即答だった。一拍の間すらない、即答だった。
「私はね、天国に行きたいんだよ。そのために、一人でも多くの人を、私の手で救いたい」
 女性の目的は、僕と一緒だった。しかし、方法に若干の差異があった。
「でも、あの子猫だって生きて――」
「続きは言わなくていい。馬鹿にするなよ、少年」
 女性は右手を突き出し、僕の言葉を制止した。
「私だって、最初は見えるもの全てを助けたかった。全てを助けて、その後に死んで、何の不安もなく天国に行きたかった。けれど、それは無理だと悟ったんだよ。所詮、世界は弱肉強食。全てを助けるという考えそのものが矛盾をはらんでいる。少年は、一日三食、ちゃんと食べているかい? その食事に、どれだけの命が犠牲になっているのか、理解して生きているのかい? 私はね、理解してしまった。理解した頃には、既に償いきれないほどの命を取り込んでしまった。だから、私は人助けに走るしかなかった。同じ罪人を救ったところで、罪が重くなるだけかもしれない。けれど、そうするしかなかった。今更、他の命を助けたところで、毎日取り込む命の量には敵わないからね」
 女性は、鼻を鳴らすと僕に背を向けた。そしてスタイリッシュに手を振って、どこかへ去っていった。

 あの人は、天国に行けるのだろうか? 
僕としてはたぶん、行けないと思う。
 けれど、だとしたら一体誰が天国に行く事ができるのだろうか? 
 たぶん、誰もいけないのだろう。少なくとも、人間には。
 
 この日を境に、僕は生き方を変えた。
 死んでもどうせ地獄行きなのだから、現世でできるだけ楽しもうと。
 色のない、苦痛だらけの世界が砕けた。子猫の血によって。
 僕が頼めた事ではないけれど、神様、どうかあの子猫だけは――天国へ行かせてあげてください。

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